〜Memories〜 9
「ぁ、気がついたみたい。もう大丈夫かな?」
まるで天使の様な声だ。ここはヴァルハラか。ならば自分を待つのは神々とその代行人……のはず。
「良かった〜、ちゃんと治せたみたい!大丈夫?立てる?」
目を醒ましたティアが最初に目撃したのは雲の上のヴァルハラの地でもなく、神々とその代行人でもなく、一人の女性プリーストと……、あの青年だった。
ティアは上半身を起こして辺りを見回してみた。どうやら洞窟の前の広場の隅っこの方に運ばれてきたみたいだ。
「この騎士さんったら、血まみれのあなたを庇いながらゾンビと闘ってるんだもん、びっくりしちゃった」
そう言って女プリーストは肩をすくめる。横にいる件の青年は今にも泣き出しそうな顔でティアを見ていた。
ティアは先ほどのことを思い出し、自分の体を検分しにかかった。服に自分の血が着いていたものの、傷痕はどこにもない。
「痛みとかはない?」
優しく語りかけてくるプリーストに向かって、ティアは頷いた。
「良かった。今度は気をつけてね。壁ならここフェイヨンの南が良いわよ〜」
そう言いながら彼女は洞窟の中に入っていった。手に本と、鈍器らしきものを持って……。
ティアはただただ頭を下げて彼女にお礼を言うことしか出来なかった。
そして―――。
「キミが……助けてくれたの?」
ティアは青年に向かって恐る恐る尋ねた。彼は一瞬ハッと顔を上げたものの、顔を赤くして俯いてしまった。
”ごめんね”
そう、はっきりと彼が言った。いや、正確には彼の唇が。
「え―――?」
”ごめんね”
彼がもう一度ティアに語りかける。空穂となった声を彼女に届けるかのように、必死に絞り出そうとしている。
「キミは……ひょっとして……」
青年はコクンと首を縦に振り頷いた。
ただの寡黙な、変わり者の青年だとばっかり思っていた―――。いや多分変わり者なのは正解なのだろうけど。
「声が……出せないの……?」
彼はまた首を縦に振って頷いた。ティアはしばらく絶句して、何もものを言えなかった。
と、彼の眼から大粒の涙が零れ落ちた。
”ごめんね”
と、また彼が口を開いた。が、やはりそれは只の息の流れとなってしまうだけだった。
「何でキミが謝らなきゃいけないの?私、助けて貰ったのに……」
ここで彼女は思い出した。自分がこんな目に遭ったのも、全部コイツが自分の後を追いかけてくるから―――!
「そういえばさ……キミはどうして私の後をついてきたの?喋られないから、じゃないよね?」
青年は首を縦に振って頷き、彼女をじっと見つめた。その瞳に宿っている透明な悲しみが背筋を伝わっていったような気がして、ティアは一瞬身をすくめた。
「あ、ごめんね、喋られないんだよね。詳しくは伝えなくてもいいよ―――でも、キミには帰るところがあるんじゃないの?仲間とか、大事な人が待ってるんじゃ……」
彼の眼から再び涙が零れ落ちた。
「え……!?」
いくら幼顔とはいえ男を二度も泣かすなどとは、罪作りなノービスである。が、この青年の泣きようは尋常ではない。
「どうしたの……?」
青年はずっと首を横に振り続けるだけだった。ティアは戸惑いながらも尋ねた。
「キミは、一体誰なの……?名前は―――」
と、ティアがそこまで言った途端、青年は顔を上げてまた彼女をじっとみつめた。その瞳からは先ほどの透明な悲しみに加えて、今度は幾ばくかの困惑が見て取れた。しかし彼はまたすぐに俯き、首を横に振りながら涙の珠を草の上に落としている。
―――え?
ティアの脳裏に嫌な予感が横切った。
そういうこともないとはいえなだろう、だが本当に起こり得るとも思っていなかった。
「もしかして……名前が思い出せないの?」
青年は涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げ、ティアに飛びついた。
「ええええええええええええええええっっ!?」
ティアはかなり焦ったが、周りに人影はなかった。
しかし途方にくれる状況である。これはどうしていいものか……。
だが、彼女はそこで初めて気がついたのだ。
彼が今までどれだけ不安だったか、そしてともかく誰かに縋りたかったということを。
「突き放したりして、ごめんね」
自分より一回り以上大きな上位職の青年に飛びつかれて、もう恥ずかしいやら気まずいやら混乱しながらも、ティアはその背をさすっていた。
「もう大丈夫だよ……」
と……。
彼の背をさすってるうちに、彼女は自分の装備しているグローブが汚れていることに気がついた。
「ちょっと良い?」
彼から離れてよく見てみれば、互いにドロドロだった。
特にティアは先ほどの出血でなんだか怪しい雰囲気が出ている。彼女を庇ったときに青年のほうにも多少血が着いてしまったらしい。なんだか申し訳ないきもちになりつつティアは苦笑した。
「なんかボロボロだね。新しいの貰いに行こうか」
エインフェリアが就くジョブには制服みたいなものがある。自分で装備を買ったりしない限りはそれが支給され、そのジョブの組合(ギルド)―――エインフェリアがつくるギルドと区別してジョブギルドとも呼ばれるが―――に行けばクリーニングや補修、交換もしてもらえる。たいていのエインフェリアは自前で装備を揃えることが多いため、クリーニングぐらいしか頼まない。
ティアが彼の手を取ると、それが”一緒に行こう”との合図だと理解したらしい。何のためらいもなく彼女は彼の手を握っている。青年は一瞬目を見張ったものの、すぐに目を細めて彼女の手を握り返した。
これがティアが初めて見た青年の笑顔だった。純朴で素直な、明るい笑顔。幼顔の所為か可愛くすら見えてしまう。
意外な形ではあったが、自身もひとりぼっちだったと内心嘆いていたティアは、頼もしい相方が出来たことを嬉しく思っていた。
「そうだ、私はティア。よろしくね。ええっと……」
そこで彼に名前がないことに気付き、ティアは口を噤んだ。青年も困ったような顔をして彼女を見ている。
「ええと……。何て呼べば……いいのかな?」
まさかオールドスタンダードに名無しのなんとかと呼ぶわけにもいかず、彼女は冷や汗を流した。
かといって彼が答えるわけでもなく、二人して首をかしげてしまう。
「私が決めても良い?」
彼女がふと口にすると、青年は嬉しそうに頷く。予想以上に期待されていそうなその目線に、ティアは軽々しく言ってしまった自分の言葉を後悔した。
何もネタがないのだ。悟られまいと必死に考え込んでいると……
「フェイ――……」
ふいに先ほどのプリーストの言葉が浮かんだ。青年はもう蝉取りをする少年のようにきらきらと目を輝かせて寄ってきている。
「いや、ほら、さっきプリさんがフェイヨンっていうから、この街の名前なのかなぁって」
何だか安直な気がして情けないやら恥ずかしいやらだが、本人がもうその気になっているようなので放っておくことにした。
後々この街の案内要員に尋ねてみたところ、やはりこの街はフェイヨンというらしい。森に囲まれた木造の町並みが独特の碧のきれいな街だ。そしてこれから彼らが向かうのはプロンテラ。つまり、また戻らなければならないのだ。
「ごめんね。私があそこで逃げたりせずにちゃんと話を聞いてあげてれば、こんなことには……」
まぁフェイも十分怪しかったのだから致し方あるまい。彼も気にしてないらしく、無邪気に笑って彼女の手を握っている。ティアはなんだか照れくさくなったが、同時に思い切って尋ねてみることにした。
「ねぇ、……本当に何も思い出せないの?名前のほかに、大好きだった仲間とか……自分がどういう騎士さんで、今までなにをしてきたとか、何で記憶がなくなっちゃったとか……」
しかしこれには、彼は哀しげに首を横に振るだけだった。
「私と会ったあの日は憶えてる?」
そう彼女が尋ねると、彼の顔にかすかな怯えの色が広がった。
手足を縛られて拘束されて、猿轡まで噛まされた上に袋詰めにされて―――彼にとって十分恐ろしい記憶に違いなかった。
フェイはしばし立ち止まって苦しそうに目を瞑った。ティアはその手をぎゅっと握り、
「今は私がいるから、大丈夫だよ!
……多分」
そう、励ました。
それが励みになったかは分からないが、フェイはハッと目を開いた。そして辺りをちょっと見回して人影がないことを確認すると、またティアに飛びついた。実は中々気遣いの出来る青年のようである。ティアはまたその背を軽くさすっていた。
と、彼が軽い嗚咽を漏らしていることを知った。相変らず声は出ていなかったが。
「フェイ……」
その時、ティアは本当に慰めてもらいたいのは全てを失った彼のはずなのに―――何故か自分が慰められているような錯覚に陥っていた。