天狼星 13
王者の咆哮が辺り一帯にこだまする。
それは、縄張りを侵された怒りでもなく、とるに足らない命である人間をせせら笑うでもなく、どこか悲しげで、そして聞くものにある種の覚悟を感じさせるものだった。
ジンオウガは一歩一歩踏みしめるようにこちらへと向かってくる。いつぞやの密猟者に見せた、ねめつけるような視線は微塵も感じられない。
そこにあるのは、堂々たる王者の風格。そして、これからお互いの命をやりとりするという覚悟。それだけだった。
ジンオウガはこちらの攻撃射程内に入る前に、もう一度吼えた。
「シリウス!」
ハンターが負けじと吼えると、一瞬殺気が緩まった気がした。ハンターは尚も彼に向かって呼びかける。
「シリウスなのか!?」
彼は何も言わず、じっとハンターを見つめている。
今のハンターの位置からでは彼の眼を確認することは出来ず、彼がシリウスであるかは分からなかった。だが、ハンターには確証があった。
「あの三人を殺したのは、お前なのか」
また殺気が緩んだ。相手がやや怯んだのだろうか。
ハンターの背筋を冷たいものが通っていく。
だがジンオウガはぴくりとも動かない……。
「霊峰に帰るんだ。お前はここにいちゃいけない―――人を殺したモンスターに待ってるのは、報復だ」
詰っするようなハンターの言葉に、ジンオウガの骨格筋の緊張までもが緩んだように見えた。
彼はふぅと悲しそうに息を吐いて、首を左右に振った。いや、振ったように見えただけかも知れない。だが、ハンターを絶望と混乱へ陥れるのには十分だった。
「どうしてだ、シリウス!」
瞬間、彼は一声嘶いた。周りに雷光虫が飛び交ってくる。再び辺りには殺気が充満し始めた。
「充電し始めたわ!」
彼女のこの一声を聞いて、ギルドバードらも動き始めた。
若者はやばいぜ、と矢をつがえてぶっ放す。老師は電撃をいともせずにランスをつがえて突進していった。
「こうなったら、力ずくで追い払っちゃうんだから!」
ハンターの後輩がわざとおどけた風に言って、後ろに回り込んでいった。
ハンターも太刀を構え直すと、ジンオウガへと向かっていく。
密猟者十人を軽々屠った彼も、流石に手練四人を同時に相手するのは厳しいらしい。
時折身を翻すようにして距離を取ると、ハンターらの方に飛びかかってきた。
彼らがそれを上手く避けると、ジンオウガは両手を軸にしてくるりと身を回転させ、その尻尾を叩きつけてきた。
双剣の彼女がその衝撃波を喰らって倒れてしまったが、すぐにハンターが駆けつけて彼女をすくいあげた。と、すぐそこに今度はジンオウガの掌が叩きつけられる。それは彼女を抱えて逃げるハンターの後を二度追った。
―――お手とおかわりかよっ!
この後に及んでも、ハンターは彼がユクモ村のシリウスであるという概念を払拭できなかった。彼は野生のジンオウガであり、王者になったというのに。
だが彼の攻撃方法はハンターの挙動にどこか通じていたし、先ほどの攻撃もまさにそれだ。
ハンターを救うために若者が放った弓が、ジンオウガの首に直撃した。
その瞬間彼が纏う電撃が大幅に膨れ上がり、その光は強烈さを増した。
谷を震わせるようなその咆哮は、今度こそ怒りに満ちていた。
「ガンナーさん、後ろに飛んで!」
彼女の声のすぐ後に、ジンオウガは跳躍した。
一瞬姿を消した彼は、つい先ほどまで若者がいた場所へと降ってきた。逃げるのが遅れていたらぺしゃんこになっていただろう。いや、それだけではなく、あの電撃にやられればそれこそ本当に消し炭だ。
ありがとう、と若者の声が飛ぶ。彼はゆっくりと起きあがったジンオウガに向かってまた一矢報いた。
ダイナミック服従のポーズだ、とハンターは冷や汗をかいた。あいつあんなものまで攻撃方法に昇華していたというのか。
ジンオウガは今度はガンナーへとその掌を叩きつけた。いつぞや見たときのように、その掌からは青白い閃光のような電撃が放出されている。あれをまともに喰らったらと思うと考えるだけで思考が停止しそうだ。
さいわいガンナーは"お手"も"お代わり"も"タッチ"も的確に避けたために、怪我一つ負わずに済んだようだった。
大きな個体の攻撃はなかなか避けられないと聞いたことがある。ならば、このジンオウガはそこまで大きくないのだろう。それは、若いからだろうか。
とどめと言わんばかりに再びガンナーに向かってもう一度"ダイナミック服従のポーズ"が繰り出されるが、若者は悲鳴を上げながらもそれを回避した。案外強運の持ち主なのかも知れない。
ここぞとばかりに老師が突進し、ハンターもそのおきがけのジンオウガの肩に向かって一太刀を入れようとした。が、それに感づいたジンオウガはいつぞやのように―――しかしそれの何十倍の威力で―――身体を使ってハンターを押し返した。いわゆる体当たりである。
体当たりそのものの威力もさることながら、その電撃がまた凄い。電撃に耐性のある防具を装備しているというのにビリビリと全身を貫いていくようだ。
「―――ハンターさん!」
「大丈夫だ、問題ない!」
彼に駆け寄ってこようとした彼女を押しとどめ、彼は腰から回復薬を取り出す。
転がっていったハンターに雷球の追撃が来たが、彼は寸でのところでその軌道を見切り、やりすごした。その隙に老師が見事ジンオウガの後脚をすくうことに成功し、ジンオオガはぎゃん、と悲鳴を上げるとじたばたと脚をもがかせた。一瞬怯んでしまったせいか、帯電もなくなっている。
そのもがいているジンオウガに彼女の双剣が襲いかかった。ジンオウガは再び悲鳴を上げると飛び退き、今度はおきがけに彼女に向かって雷球を飛ばした。
が、それは彼女の前に出た老師の盾がガッチリと受け止める。絶縁処理を施された不思議な形の盾の前には、例えジンオウガの電撃であろうとも無力らしい。
「帰るんだシリウス!」
再び声をかけたハンターに向かって、返事と言わんばかりに雷球が飛んできた。
その隙に矢の雨が、鋭穂が、二対の剣が彼の身体を切り裂いていくというのに、彼は移動する気配すら見せない。彼がここに留まらねばならない、強い理由があるのか―――。
他の三人が彼と距離を取ったところで、尚もハンターは呼びかけた。
「シリウス、ここは村人の生存圏内なんだ。どうしてもお前のテリトリーに入っちまう。こっちには防ぎようがないんだ。もしまた、あいつらのように侵入者を許さないのだとしたら、俺は……俺らはお前を―――」
ハンターの動きが止まると、それまで彼を穏やかに見ていたジンオウガは再び姿を消した。
「ハンターさん左へ!」
彼女の言葉に我に返り、とっさにその身を左の木陰へと隠す。ジンオウガは先程と同じように跳躍して、ハンターがいたところへと落ちてきた。さっきと違うのは、今度は背中ではなく前足を重点的に叩きつけてきたことだった。しかしあの女性騎士のとうさつ力には恐れ入る。
ジンオウガはそれでハンターをしとめられないと見るや、身体をくるりと回してその超重量の尻尾を木に叩きつけてきた。うわっとハンターは死角になる場所へと滑り込む。木は見事にボキボキと音を立てて薙ぎ倒された。
どうしてなんだ、シリウス―――。
倒れてきた木の下敷きにならない様、ほうほうの体でハンターはその場を逃げ出す。再び彼の後ろで二度地鳴りがした。
更に飛びかかってこようとしたジンオウガを矢の嵐が止める。彼は一旦距離を置くと一声嘶いた。雷光虫が彼にまた集まろうとしていた、その時。
「てぇいっ!」
ハンターの後輩である彼女が、乱舞を繰り出した。
本格的な狩猟は久々と言っておきながら、その剣裁きは的確で、見事であった。その美しい曲線を見るに、もしかしたら彼よりも上手いのかも知れない。双剣を専門に極めてきたのだろう。
先程老師に痛めつけられた後脚を再び斬りつけられ、ジンオウガが一瞬怯んだ。帯電は成功しておらず、ハンターもほっと胸をなで下ろした。電撃を纏うあれは出来れば相手にしたくない。
ジンオウガはすぐに体勢を整えて彼女へと尻尾を叩きつけたが、華麗にかわされてしまった。
その体勢から元に戻ろうとしたとき、ふとジンオウガがよろめいた気がした。いや、彼の口からは切なげな鳴き声のようなものが漏れだしている。
「―――スタミナがなくなったのか」
口から荒い息こそ吐いてなかったが、しかし明らかに動作が緩慢になってきている。
「ちょっとそのジンオウガ、おかしいわ」
攻撃をしてくる様子のないジンオウガの様子を見て、後輩が言った。
「おかしいって、どこが?」
と若者が尋ねると、彼女はその胴体を指した。
「もしかしたら小さい個体なのかなと思ったんだけど、それもあるんだけどほら、あそこ……この子飢えてるのかも知れない」
毛ツヤも悪いし、胴体がややへこんでいるというのだ。
ハッキリと表に出る程ではないので他の三人には分からなかったが、彼女には分かるものがあるのだろう。
三人は身を硬くした。飢えてるモンスターを相手にすると言うことは、隙を見せれば食われる恐れが大いにあるということだ。その危険性は通常の数倍に跳ね上がるという。
三人は何をするでもなくフラフラしているジンオウガに向かって、ジリジリと距離を詰めていく。
何をしでかすのか分からない恐怖に、ガンナーも黙ってその成り行きを見守っている。
と、ジンオウガは一瞬身を引いた後、ハンターに向かってまっすぐ飛んできた。
あっと思ったときにはもう遅く、彼はどさりと地面に倒れ込む。後輩の悲鳴にも似た声が聞こえてきた。
獣の臭いが上から覆い被さってくる。息苦しい気がするが、実際に息苦しくはない。腕を動かそうとすると、意外なことにも動かせた。ジンオウガが組み敷いていたのは彼の身体ではなく、その太刀だったのだ。
はっとハンターが眼を開けてみると、真上にジンオウガの顔があった。その眼とハンターの眼がバッチリと合う。その瞬間、ハンターの心臓がドクンと高鳴った。
彼の右目にあるは、見覚えのある傷。彼は、隻眼だった。
やはり、やはりお前だったのか。
ハンターは思わず片手をその顔に伸ばした。
と、双剣の彼女が斬りかかろうとしているのを見て、思わず「待ってくれ!」と叫んだ。
シリウス、シリウスなんだな―――。
その碧色の宝玉は、穏やかな光を湛えて彼を見つめている。
彼がもう一方の腕も顔の方に伸ばすと、ジンオウガも彼に首を下げた。
彼が両手で包み込みようにその鼻面を撫でてやると、ジンオウガが眼を細めて、嬉しそうに鳴いたように思えた。
もう二度と、逢えないと思っていた。
でもまさか、こんな再会になるなんて―――。
「シリウス……」
ハンターはその顔を撫でながら、彼に語りかける。
「頼む、ここを出ていってくれ。せめてもうちょっと上に、霊峰の方へ行くだけで良いんだ。俺は……」
ハンターの脳裏に、嬉しそうに尻尾を振りながら彼の後をついてくるシリウスが浮かんだ。
モミジや子供を背中に乗せてはしゃいでいたシリウス。
電気風呂やパフォーマンスが大好評だったシリウス。
よくベッドにあがってきては、一緒に寝ていたシリウス。
俺らに、村人に、お客さんに、沢山の笑顔としあわせをくれた。
そのお前を、俺は―――
「俺はお前を殺したくないんだ―――」
思わずハンターの瞳から、涙がこぼれ落ちた。
だがシリウスはそれを聞くと、切なそうに鳴きながら首をまた左右に振った。
そして、シリウスが彼のこぼした涙を辿るように顔を近づけた瞬間―――
クオォンッ
シリウスが悲鳴を上げて横へ転がっていった。
ハンターが起きて何が起きたのかを確認しようと起きあがると、何やら怪しいにおいが鼻くうを抜けていく。どうやら後輩がシリウスに向かって肥やし玉を投げたらしい。ハンターが食われそうになったと思い、手を出したらしい。ヒトの何十倍といわれる嗅覚を持つ彼らにとって、あれは相当な苦痛になるだろう。
見れば、転がっていったシリウスへ再び矢の雨が降り注いでいる。が、次の瞬間ガンナーの顔を雷球が掠めていった。
雄叫びを上げ、再び電撃を纏ったそれに、老師とハンターも身構えた。
まずシリウスはガンナーへと向かっていった。
この中で一番弱い者が分かるのだろうか。よく狙われている。
「うひゃあっ」
俊敏性を増したそれの突進を避けようとして、彼は横に滑り込む。バラバラと落ちた矢を拾う間もなく、振り向きざまにシリウスはまた"お手"と"お代わりを"繰り出した。
ガンナーは一撃と二撃目までは上手く避けたものの、今度の三度目の"タッチ"の際に鋭い爪に脚をかすめてしまったらしく、右足を抱えてその場にうずくまってしまった。
「まずい!」
シリウスはとどめといわんばかりに前足を上げた。老師の突進も間に合いそうにない。
そこへ黒い影が滑り込んできたかと思うと、ガンナーの鎧の裾を掴んで攻撃の範囲外へとぶん投げた。双剣の彼女だ。代わりに彼女へとその腕が降りおろされたが、彼女はシリウスの腹の下へと潜り込んでそれをかわした。
ガンナーを受け取ったハンターもほっとため息をついて、手当を開始した。どうやら骨に異常はないようだった。防具のおかげで出血もない。用意した麻酔剤を塗り込もうとして、ハンターはあの声を聞いたのだ。
シリウスの周りにあの雷光虫が浮かび上がる。
その幻想的な光景に見とれていたハンターも、あるものを見た瞬間現実に引き戻された。シリウスの側にはまだ彼女の姿があったのだ。もしかしたら、こちらに向かってこないよう気を惹いてくれているのかも知れない。老師は丁度反対側へと抜けていったところだった。あそこならば大丈夫だ、だが―――。
再び、シリウスが嘶いた。
「逃げろッッ!」
彼の声と、雷の雨が始まるのは同時だった。
彼女は最初、その雷の雨をまたシリウスの腹の下でやり過ごそうとしたのだが、最後の仕上げにと彼が吼えると、その体全体から電撃が迸った。
彼女はその電撃で吹っ飛ばされてしまった。悲鳴が聞こえてきたが、転がった先で彼女はぴくりとも動かない。シリウスはそれを見て、くるりときびすを返した。
そして、彼女に向かって前足をゆっくりと掲げ―――
「やめろ、やめてくれシリウス!」
駄目だ。何をやってるんだやめろ!
それは、やっちゃいけない。だって、彼女は―――お前のことを―――
―――ばしり、ばきばき
「う……うわあああああああああああああああ!」
ハンターは一瞬、目の前で何が起こったのかを理解できずにいた。
横をガンナーが駆け抜けていく。先程の痛みはどこへいったのやら、彼は雄叫びをあげながら矢をつがえると次々にシリウスへと繰り出した。
次の標的へと進路を変えようとしたジンオウガを老師がくい止めた。ハンターは、それでもまだ動けなかった。
シリウスが、あの人間が大好きだったはずのシリウスが―――人を殺した。
親である、自分の目の前で。
親である、彼の命令も嘆願も無視して。
彼女は、お前のことを……お前を……
「ッ畜生おおおおおおッッ!!」
ハンターも太刀を構えるとシリウスに突進していった。今はただ憤懣やるかたなく、やりきれない。この行き場のない怒りと悲しみを誰にぶつければ良いのだろう。
振り向きざまを狙ってハンターはジンオウガの頭部に向けて太刀を振り降ろした。
シリウスはやや上体を反らしてそれを避けたが、それでも太刀の切っ先が彼の角に当たり、一部がバキバキと砕けた。
シリウスはそれで一瞬怯んだ。ハンターはこの隙を逃さなかった。彼は一瞬老師がその範囲外にいることを確認して、その巨太刀を矢継ぎ早に繰り出した。
「うおおおおおおおおおおおおおッッ!」
もう、何も考えられない。
彼は頭が真っ白になりつつも、それでも太刀を振るうことをやめなかった。シリウスの悲鳴や、顔にかかる血しぶきまでもがどこか遠くのことのように感じられる。
彼に続いて好機とばかりに老師とガンナーもたたみかけた。
足を引きずりながらもこの猛攻から逃れ、更に最後の力を振り絞って飛びかかってきたシリウスに、ハンターも目を瞑り、最後の一太刀を振るった。
ざくり、と確かな手応えがあった。シリウスの喉から壮絶な悲鳴が放たれる。はっと眼を開けたハンターの顔は、血で真っ赤に染まっていた。
勝敗は決した。
シリウスは一際甲高く鳴くと、その場にどうと倒れ込んだ。断末魔の悲鳴だった。
「シリウス!」
ハンターが彼の顔のそばに駆け寄ると、どうやらまだ息があるようだった。彼はずっと親を呼ぶかのように鼻を鳴らしている。
ハンターが血にまみれたその顔を持ち上げて抱きかかえると、彼は嬉しそうに眼を細めた。
「シリウス、ごめんな……、ごめんなっ……」
彼の頭を抱えながらボロボロと泣いているハンターへと、シリウスはその顔を寄せた。どこにその余力が残っていたのだろう。
そして彼を慰めるようにその頬を嘗めると、ついにその体がふらりと傾いた。
「シリウス……!」
彼を抱き止めようとしたその腕をすり抜けてシリウスは倒れ込んでいく。その間際にハンターが見たのは、こちらを見て穏やかに笑っている彼の顔だった。彼の瞳に最後に映ったのはハンターか、夕暮れの茜色に照らされた美しい故郷か、それとも別なものか。
渓流の澄んだ流れの中に、彼は身を横たわらせた。その体は今度こそ地へと沈み、その碧色の宝玉を秘めた瞳も、もう開かれはしない。
彼の体から無数の光が夕暮れの中へと消えていく。まるでシリウスの魂があるべきところへ還ろうとするかのような幻想的な光景だった。
その青白い光を見て、ハンターは思いだしたのだ。
彼の名の由来。それは自分の大好きな狼であり、自分が最も好きな星の名前であったことを。
あの神話に登場する神様が旅人を救ったのには訳があった。
旅人は以前、その森で傷ついていた小さな狼を助けていたのだ。その心優しい旅人を死なせる訳にはいかず神様は旅人を助け無事に村へと導くのだ。
一見、どこにでもある童話。ありふれた恩返しの童話である。
だが、自分がしたことは本当にそれで良かったのだろうか。
よくある話のように、巣から落ちた鳥の雛を実は拾ってはいけなかったのと同じように、自分がしたことは間違っていたのではないか。
ほの暗い後悔が彼を包む。
「くっ……!」
彼がその亡骸にすがりつくよりも早く、先ほどのシリウスのものに似た、壮絶な悲鳴が聞こえてきた。思わずその場の三人は声がした方を振り向き警戒する。しかし、モンスターの姿はどこにも見あたらなかった。
三人がいままで戦っていたこの場は正面が切り立った崖になっており、小さな滝も流れていた。問題の声は、そちらの方からしたのだ。
ハンターは立ち上がり、老師も彼と目を合わせて頷いた。
そして彼はまっすぐに彼女の元へと向かった。その亡骸の元で、若者が男泣きをしていた。
「済まない……」
彼女の遺体は、モンスターにやられたとは思えないほど綺麗だった。シリウスの高電圧にやられたせいか、防具はところどころこげていたが、内蔵や血が飛び散ったりはしていない。うつ伏せでその表情は分からなかったが、苦しまずにいけたことをただ願うばかりだ。
彼女の周りには、恐らくシリウスのものだろう血が飛び散っている。周りを見渡してみれば、地面や岩肌に赤黒いものが点々としていたり、草木が焼け焦げていたりしてまさに修羅場だった。
彼は上着を脱いで彼女にかけ、両手を合わせて目を閉じた。骨は、必ず俺が届けてやるからな。
若者の咽び泣きが一際高くなった、その時。
「う、う〜ん……」
上着が、かすかに震えた。
若者はぎょっと後ろにとびのき、ハンターは開いた口がふさがらなかった。老師は表情こそ変えなかったものの、石のように動かない……。
確かに今、ハンターの上着の下から声が聞こえたのだ。彼がおそるおそるそれをとってやろうとしたその先に、それは上着を押し退けてはいでてきた。
「うわああああああああああ、ゾンビ〜〜〜〜!」
若者の悲鳴が谷にこだまする。
彼女はきょとんとした風に、パーティメンバーを見回した。みんな一様に表情をこわばらせて固まっている。
「あれ、みんなどうしたの?ジンオウガは……?」
「お、おまえさんこそ、あいつにやられたんじゃあ……」
ハンターがおそるおそる問いただすと、彼女も思いだしたようで自分の体を検分し始めた。自力で立ち上がって、関節もいたるところが動かせるようで問題はないらしい。高電圧も防具のおかげで一部軽い火傷を負ったのみだ。
一体、これはどういうことなのだ。確かに、あのときシリウスは彼女にとどめを刺したのではなかったのか。
彼女はそんなことよりもシリウスの姿を認めると、そちらに駆け寄った。嗚呼、と絶望したかのような声が聞こえてくる。
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
彼にすがりついて泣き崩れる彼女の方に寄ろうとしたときに、再びあの声が聞こえてきた。それは、まるで何かを呼ぶかのように二度、三度立て続けに鳴いた。腸を絞るような、まるで聞くものの心を抉るかのような声だった。
「あの滝の奥……?」
彼女がふと顔を上げて滝に寄った。そういえば確かに、その声は何かに反響するかのように聞こえていた気がする。
三人も彼女に続いた。
意を決して滝をくぐり抜けた先は、なんと広大な洞窟になっていた。ぶるぶる、と彼らはその水を払う。秋まっただ中のこの時期の水はとても冷たい上に、ひんやりとした洞窟の空気が体温を奪っていく。万が一、と持ってきたホットドリンクを煽り、老師が雷光虫のカンテラを照らして慎重に進んでいく。いつ何が飛び出てくるか分からない恐怖に心臓が口から飛び出そうだ。この闇夜に奇襲をかけられたらたまったものじゃない。
ただ一人、先ほど一回死んだ彼女だけは涼しそうな顔をして進んでいく。先ほどので、何かを悟ったのだろうか。
しかし、彼らの心配は杞憂に終わった。
洞窟の中頃に来たところに、天井の亀裂からわずかに光が射し込んでいるところがあった。それよりやや奥まった、丁度楕円のような窪みのところに、それはいた。
ハンターは急いで若者を伝令に出した。この時間くらいにギルドの使者とベースキャンプで落ち合うことになっている。
これを見たら、ギルドは何て言うだろうか。考えただけでも冷や汗が出てくる。
彼女がそれに一歩近づくと、それは低い唸り声をあげ、不自由な体ながらも後ろにいるものを庇うような体勢になった。
しかしそれはもう動くことすら、いや唸り声をあげることすらままならないようだった。最期の時が近いのだろう。シリウスは、これを護りたかったのか―――。
「これは、雌ね」
と後輩が言った。
なるほど、シリウスの奥さんだった訳か。
後ろでいっちょ前に毛を逆立てて威嚇しているのは、彼の―――子供らか。
そこにいたのは三匹のジンオウガだった。一匹は成獣、二匹は出会った頃のシリウスよりもやや上くらいだろうと思われる幼獣だった。
しかし不思議なのは母親の状態である。ハンターはそれを一目見たときに、瞬時に思い出したのだ。
ここよりやや上で死んでいた、ズタズタに切り裂かれたこの地の長老、ドボルベルクのことを。
そのジンオウガの甲殻もまた至る所に細い傷が走っていた。しかし彼女の命を奪うにまで至った傷はそれではない。彼女の肩を見たときに、ハンターは腹の底から声を絞り上げ、がくりと膝をついた。
雌のジンオウガの肩に刺さっていたのは、彼の愛弟子の一人、片手剣を愛用していた彼の剣そのものだったのだ。あの剣は彼が持っていた物の一つ、生命をじわじわと蝕む毒を放出する剣だ。
それがずっと刺さりっぱなしだったために、このジンオウガも長いこと毒に晒されてしまったのだろう。流石にこの強大な生き物も、体の内側からじわじわと破壊されるのは防げなかったようだ。他にも、人為的に受けたと思われる傷がいくつかある。
彼の愛弟子らはこのジンオウガに遭遇して、彼女を追い払おうと尽力したに違いない。しかし、巣を護るために彼女もまた鬼神となって応戦したのだ。
彼らも、この事実を知っていれば深入りはしなかっただろうに―――。
ハンターは膝の上で拳をぎゅっと握りしめた。
老師がジンオウガの子供に近づくと、それでも彼女は子供を護ろうと威嚇した。一家の全てだった夫を失ったことを自覚している彼女は、この後子供がどうなるか容易に想像できているはずだ。
その健気な姿に、思わずハンターの後輩も口元を手で覆った。
老師はジンオウガの頬に手を当てぽんぽん、と宥めた。
「お前さんに紹介したい人がおるんじゃ」
そして、ハンターを指さすと、
「お前さんの旦那の父さんじゃ」
ジンオウガが何を思ったかは分からない。しかし、彼女はちゃんと瞳を動かしてハンターの方を見やったのだ。
「お前さんの子供らは、彼にとって息子の形見じゃ。許してくれとは言わん。だがその子供らは決して悪いようにはせん。安心して逝きなさい」
後輩の瞳から思わず涙がこぼれる。
ジンオウガはしばらくハンターと見つめあっていた。渓流の清らかな流れのような、美しい瞳だった。
やがて彼女は渾身の力を振り絞って、子供たちの方へと顔を寄せた。子供らはぴぃぴぃと鼻を鳴らして甘えている。母親は彼らを諭すように優しくくるる、くるる、と鳴き、そしてもう一度ハンターを見て、それから子供たちの方に顔を寄せると、そこで力尽きた。
ハンターは母親に縋っている子供らに歩み寄ると、彼らをひしと抱きしめて泣き崩れた。